エズラ記9章

9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「 イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、

9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」

 これらの良いことすなわち、バビロンから捧げ物が運び込まれて後、指導者たちが当地のイスラエルの霊的現状について告げるために来ました。彼ら自身も心を痛めていた問題であるのです。四節には、イスラエルの神の言葉を恐れ畏む者たちが集まったことが記されています。彼らは、エズラに強い期待を抱いていました。彼がイスラエルに到着してから四ヶ月が経っていました。指導者たちは、エズラがそのような問題に当たるにふさわしい人と認めていたのです。十章では、彼の肩にかかっていると言い表されています。

 彼らの告げたことは、民が堕落していることです。異邦の慣わしを取り入れ、異邦の民と縁を絶つことなく、異邦の女を妻としたこと、そして、指導者たちと代表者たちがその張本人であるということです。彼らとその息子たちは、イスラエル人との婚姻を結ばず、異邦人を妻として娶ったのです。ここでは、イスラエル人の娘を異邦人に嫁がせたことは記されていません。

 このことについては、「聖なる種族が混じり合っている。」と表現されています。聖なることと混じり合うことが対比されていて、神の民としての証しが大いに損なわれていることを言っています。聖なるとは、原意は、異なっていることで、神の民が神の言葉に従うことによって、この世とは異なるものとされていることを表します。彼らは、世とは分離したものであるのです。神の言葉に従うことにより、神にふさわしい者に変えられるのです。エズラの祈りもこの観点から祈られています。

 イスラエルの民、祭司、レビ人と記されているとおりに、聖いことが求められる祭司やレビ人がそのようなことを行っていました。

 また、指導者たちと代表者たちが張本人と指摘されていて、中心になって行っていたのです。彼らは、上に立つ者たちですから、豊かであったと考えられます。欲望のままに歩んでいたのです。彼らは、民の聖さについて考えることはありませんでした。彼らがそのような行動取れば、誰がそれを制止するでしょうか。また、人々は、悪い例に倣うのです。周りに対する影響は大きいのです。

 今日、誰でも、証しのために聖さを保たなければなりません。御言葉を伝える者は、特にそうです。また、指導的立場にある者は、集会全体への影響について考えなければなりません。

9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。

 着物を引き裂いたことは、身を覆うものを裂くことで自分は神の前に聖いものではなく、肉のままに歩んでいるものであることを表すためです。激しい感情を現すためではありません。

 髪と髭を抜いたのは、自分を覆うものを取り除いたのです。民が肉を表し、神の前に自分を覆うことをしなかったからです。それを自分のこととして捉えています。

レビ記

14:8 きよめられる者は自分の衣服を洗い、その毛をみな剃り落とし、水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。その後で、宿営に入ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にとどまる。

14:9 七日目になって、彼は髪の毛、口ひげ、眉毛など自分のすべての毛を剃り落とす。すべての毛を剃り落とし、自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。

→ツァラートからの聖めには、すべての毛を剃り落としました。髪は自分を覆うということを表しています。しかし、ツァラートは、肉の現れの比喩であって、自分を覆っていないことが明らかになったのです。そこからきよめられるためには、その偽善を一旦捨てることが必要です。

 着物を洗うこともそうです。肉を覆っていたかに見えた服は、肉を覆わず、外に現してしまったのです。それは、服を着ていたことにはなりません。外に現したのは、キリストではなく自分の肉です。それで、服も洗うのです。

 そのうえで、水によって表される御言葉を適用することで、きよめられるのです。

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 エズラ自身は、神の前に彼らのような罪人ではありませんが、彼は、民の罪を自分の罪として捉えています。神の前に民を正しく保つことができないでいることを自分の責任としたのです。

 

 イエス様の御在世当時、着物を引き裂いた大祭司は、一人の人間が神を冒涜した罪についてそれを自分の罪として表すために、身を覆っている衣を裂いたのです。しかし、彼は本当に民の罪について考え、その冒涜した人のことについて考えていたのではありません。彼がしようとしたことは、すぐに罪に定め、死刑に定めることです。彼の行為は偽善です。

9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。

 この不信の罪に対して、集まる人々がいました。彼らは、イスラエルの神の言葉を恐れ畏む人々でした。

9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、主に向かって手を伸べ広げて、

9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。

 エズラは、恥じていたのです。彼は、神に向かって顔を上げることができないほどに恥じていました。それは、自分たちの罪のためです。その罪は、自分が犯したものではありませんでしたが、「私たちの咎、罪過」言い表しています。神の前に御言葉を守り証しを立てることは、神の民としてのイスラエル全体の責任です。イスラエル全体の罪のゆえに捕囚とされたのです。この度の不信の罪についても、それは、かしらを張本人とする集団全員の罪なのです。彼は、選民イスラエルの証しという観点で、「私たち」と言い表しています。

 今日、教会に属する信者は、教会全体の証しを担っています。教会が神の前に健全に建て上げられることが必要であり、そのようにして証しを担うのです。また、アカンの罪のように、個々の罪は、教会全体の祝福に関わってきます。家庭における歩み、職場における歩み、そして、教会の集まりにおける振る舞いは、教会全体の証しに関わってくるのです。

9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。

9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、主はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。

 先祖が大きな罪を犯しましたが、そのために捕囚にあったのです。しかし、主は、その「あわれみ→求める者に喜んで答えること」を与えたのです。逃れの者を残し、一本の杭を聖なる所に与えまし。この杭は、聖なる所に与えられています。聖なるところは、神殿のあるところです。ですから、この杭は、神殿を指しています。再建されるはずもない神殿がイスラエルに与えられたのです。神様の臨済を現すイスラエル中心です。ペルシアでは、礼拝はありませんでした。しかし、再び、神の臨済を覚えて仕えることが許されたのです。

 それは、民の目を明るくし、異国の奴隷である者を生き延びさせるためでした。目を明るくすることは、彼らが真理に目を留めるようにされることです。神殿が置かれ、そこで仕えることによって、神の臨在を覚え、信仰に歩むのです。

 そのようにすることで、彼らは、神とともに歩み、生き延びることができます。霊的にも、この地上における生活に於いても、神の祝福があることで生き延びるのです。

9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。

 奴隷の身であるにも関わらず、見捨てることなく、ペルシアの王によって、「恵み→契約に対する忠誠」を施されました。それで、民を生かし、宮を建て直させました。生かしたことは、霊的な回復です。生き延びたとしても、神の霊的な働きに与ることはできません。

 さらには、エズラの時代には、廃墟が建て直され、石垣が築かれたことが分かります。

9:10 こうなった今、何と言えばよいのでしょうか。私たちの神よ、私たちはあなたの命令を捨てたのです。

 彼は、自分たちの罪について明確に言い表しています。それは、支配者としての「私たちの神」の前に、命令を捨てたことです。

9:11 あなたは、あなたのしもべである預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが入って行って所有しようとしている地は、異国の汚れで汚れた地、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地である。

9:12 だから今、あなたがたの娘を彼らの息子に嫁がせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子の妻にしてはならない。永久に彼らの平安も幸せも求めてはならない。それは、あなたがたが強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫の所有とするためである』と。

 その命令について取り上げ、預言者によって明確にこの度の件に当てはまる内容について言い表しました。それは、異邦人との婚姻を結んではならないということです。この婚姻に関しては、親が責任を負います。それで、息子や娘を持つ親に対する命令として記されています。

 また、異邦人の「平安と幸せ(良い、良しとされた)→完全さと、御心に適うようになること」を求めてはならないのです。すなわち、異邦の民は、汚れ果てているのです。彼らを変えて御心に適う完全な者に変えることをしてはならないということです。それは、できないことなのです。婚姻関係を結び、彼らと交わりを持ったとしても、彼らを変えることはできないことであり、かえって、イスラエル自身が汚れに染まっていくのです。ですから、婚姻関係を結ぶなと命じられたのです。

 そうすれば、イスラエルは強くなるためです。彼らの力は、神にあります。御言葉に従うならば、神がその力となられるからです。

 また、その地の良い物を食べるためです。彼らの満たしは、御言葉に従うところにあります。

 比喩としては、食物としてのイエス様によって満たされることが表されています。そして、結んだ実に応じて、御国で報いを受けるのです。

 相続地を永遠に受け継ぐためです。彼らが御言葉に背くならば、彼らは、相続を失うのです。神様が世界に散らされます。

 このことは、比喩にもなっていて、神の言葉に従うならば、永遠の報いを受けるのです。しかし、背いたならば、御国での報いを失うのです。

9:13 私たちの悪い行いと大きな罪過のゆえに、様々なことが私たちの上に起こりましたが、私たちの神、あなたは、私たちの咎に値するよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように私たちに備えてくださいました。そのようなことの後で、

9:14 私たちは再びあなたの命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と、姻戚関係に入ってよいのでしょうか。あなたは怒って、ついには私たちを絶ち滅ぼし、残りの者も、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。

9:15 イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

 神の前に犯した罪は、明らかです。彼は、そのために滅びを刈り取るのではないでしょうかと神の正しさによる扱いを恐れました。しかし、今、神の前に祈ることができることが許されていました。その与えられた機会に、彼は、神の前に罪の言い表しをしたのです。